【だいこくあんたけのじょうおうていあと】武野紹鴎(1502~55)は,室町後期の茶人で大黒庵・一閑と号した。父は堺の有力町衆。24歳で上洛した紹鴎は,36歳で堺に帰るまで当地に居を構えた。その間,三条西実隆(1455~1537)について古典・連歌を,村田宗珠からは茶の湯を学んだ。茶の湯において紹鴎は,四畳半の侘び茶をさ Read more.
【きのしたじゅんあんていあと】木下順庵(1621~98)は,京都出身の儒学者。松永尺五(1592~1657)に学び東山に開塾した。加賀前田家に招聘され,京都住まいのまま加賀と江戸を往来した。天和2(1682)年幕府に登用され将軍綱吉(1646~1709)の侍講となった。門下に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲等を輩出し,木門と称された。この石標は木下順庵邸の跡を示すものである。 Read more.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。その折5月には下京十八組(修徳)小学校,6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察。この石標は上京二十九組小学校の跡を示すものである。 Read more.
公開日は、3~7月と9~11月の毎週水・土曜(祝日は除く)と、11月29日の創立記念日などで、午前10時から午後4時。建物と調度品約60点が京都市有形文化財に指定されている。10人以上の団体は要予約。無料。 Read more.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月3日,上下賀茂神社に行幸した。その帰途,天皇はこの地にあった田中四郎左衛門が経営する寒天工製造場に立ち寄り巡覧した。この石標は明治天皇ゆかりの寒天製造場跡を示すものである。 Read more.
平安京左京四条三坊九町に位置した三条烏丸御所は,三条烏丸殿・三条桟敷殿ともいい,三条南殿の名で総称することもあった。三条南殿の最古の居住者は,堀河(1079~1107)・鳥羽(1103~56)両天皇の乳母であった藤原光子で,その息藤原実能(1096~1157)に受け継がれ,実能から鳥羽法皇に献じられ,その御所となった。昭和62(1 Read more.
平安京・左京四条三坊九町に位置したこの地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、左大臣となった藤原実能の邸宅があったと、当時の貴族の日記に記述されている。 Read more.
1919年施行された旧道路法、同法の施行令に基づき、当時の市町村に道路元標が設置された。これは、ほとんどが市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交差点に置かれ、当時の市町村間の距離を示した。 京都市道路元標はもともと三条大橋にあったという説もあるが、当時の告示よりこの場所と断定できる。(”三条Walking”より) Read more.
中沼了三(1816~96)は,隠岐出身の儒学者で,上洛して学び,師の鈴木恕平亡き後この地に学舎を開いた。勤皇家でたびたび投獄されたが屈せずに人材を育成した。維新後も教育者として活躍し,新政府軍の参謀・天皇の侍講・昌平黌教授等を勤めたが,上層と合わず官を辞した。この石標は中沼了三の塾跡を示すものである。 Read more.
竹内式部(1712~67)は越後国出身の垂加流神道の学者で,この地に家塾を開き,その学問は若い公卿たちの間に尊王思想を目覚めさせた。白川・吉田家を差し置いて公家に神書を講じた等の理由で宝暦9(1759)年京都から追放された(宝暦事件)。さらに山県大弐(1725~67)の明和事件に連坐して八丈島に流される途中三宅島で病没した Read more.
冷然院は累代の後院の一つ。代々図書を収蔵すると共に天皇譲位後の住居とした。初見は,弘仁7(816)年嵯峨天皇(786~842)の時。平安京左京二条二坊三町~六町の四町を占め,大炊御門・二条・大宮・堀川の各大路に囲まれていた。 Read more.
【ほりかわてんのうさとだいりあと】平安京左京三条二坊九町から十町にかけてあった藤原基経(836~891)邸を堀河院(堀川殿)といい,関白藤原兼通(925~977)によって改修され,円融天皇(959~91)の時初めての里内裏となった。以後白河(1053~1129)・堀河(1079~1107)・鳥羽(1103~56)天皇の里内裏となった。とりわけ堀河天皇 Read more.
並河天民(1679~1718)は,伏見横大路に生まれた。儒学を伊藤仁斎(1627~1705)に学び,この地に塾を開いた。医学は名古屋玄医(1628~96)に学び『傷寒論』の考証的研究を行い古医方の大家となった。師仁斎の学説に必ずしも従わず経世済民を重んじ,儒医として活躍した。この石標はその塾(講学所)堀木之舎の跡を示すものである。 Read more.
藤本鉄石(1816~63)は,岡山藩出身の尊王攘夷派志士。脱藩して上洛し,軍学者として私塾を開いた。文久3(1863)年天誅組の挙兵にあたり推されて総裁となったが,諸藩の討伐軍の攻撃を受けて大和国吉野で戦死した。この石標は藤本鉄石の寓居跡を示すものである。 Read more.
西川耕蔵(1823~65)は,三条通の本屋に生まれたが学問を好み,梅田雲浜(1815~59)に学び勤王家となった。元治元(1864)年6月5日池田屋の密議に加わっていたが,新選組の急襲を逃れ,聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられ,慶応元(1865)年斬罪となった。この石標はその邸跡を示すものである。 Read more.
日彰小学校は,明治2(1869)年東洞院三条(現在の梅忠町)に下京区第四組小学校として開校した。明治5(1872)年旧松山藩邸のこの地を購入し,もとの山階宮別邸を移築して校舎とし,階松小学校と改称した。明治9(1876)年京都府知事槙村正直により日彰小学校と命名された。都心地域にあり児童数の減少が進行したため,平成5(1993 Read more.
青木聾米(1767~1833)は,祇園の茶屋「木屋」に生まれ,通称木屋佐兵衛。号を木米といい,晩年に聴覚を失ったため聾米と称した。29歳で作陶を志し,奥田頴川に入門。仁阿弥道八・永楽保全とともに幕末京焼の三名工といわれた。この石標は青木木米(聾米)邸宅の跡を示すものである。 Read more.
古高俊太郎(1829~1864)は近江国出身の尊皇攘夷派の志士。湯浅喜右衛門と称し,京都で薪炭商を営み志士らを援助していたが,元治元(1864)年6月5日,新選組に捕えられた。これが池田屋騒動の契機となった。この石標は彼の邸宅跡を示すものである。なお,各種事典では名字を「こたか」と読むものが多い。 Read more.
中岡慎太郎(1838~67)は,土佐藩郷士で坂本龍馬(1836~67)とともに薩長同盟成立に活躍し,陸援隊を組織し隊長となった。この石標は,脱藩後の中岡が身を寄せた土佐藩御用達書林菊屋(鹿野安兵衛宅)の跡を示すものである。 Read more.
【だいうんいんあと】大雲院は,織田信長(1534~82)の帰依を受けた浄土宗僧貞安(1539~1615)が,本能寺の変で亡くなった信長・信忠(1557~82)父子の菩提を弔うために建立した寺。信忠の法名に因んで大雲院と称した。もと烏丸御池にあったが,天正18(1590)年,豊臣秀吉(1536~98)の命によりこの地に移された。昭和48(1973)年円山公園南へ移転。 Read more.
【ごちんざきゅうせき】碑文:白姫辨財天は維新の頃より招福火除の弁財天として当所に鎮座されその後に稲荷大明神を合祀致し元の大戦の前には角一龍王を御所より勧請致し永らく崇敬するも平成元年に当主移転の運びとなるこの度 顕彰碑を建立するに至り神恩は海山の如しと深謝し奉る上マスト 田中宏直謹書 Read more.
【さかもとりょうまつまおりょうぐうきょあと】解説は本碑背後の壁面パネルにゆずるが,パネル解説でもいうように正確な場所については特定できない。 Read more.
【あみだきょうせきのひ】この碑は,宗像大社(福岡県)にある阿弥陀経石(重要文化財)を,正徳4(1714)年に模刻したもので,原碑とほとんど同じ形状・大きさである。同様の模刻碑は,京都市内では正林寺(東山区)にも延享3(1746)年に建てられ現存する。 Read more.
田儀兵衛(1832~93)は紀伊郡柳原町の名望家。私財を投じて貧民救済を行い,明治19(1886)年に流行したコレラの防疫活動にも尽力した。同22年,柳原町町長に選出された。この石標と石碑は,その業績を顕彰するものである。 Read more.
明治33(1900)年4月京都府立簡易商業学校が京都商業学校内に開校した。翌年京都市に移管され京都市立簡易商業学校と改称。明治40(1907)年京都市立商業実修学校と改称。翌年この地に校舎を移転。その後昭和11(1936)年,右京区西院馬場町に新築移転して市立四条商業学校と改称された。昭和23(1948)年の新学制により商業学校は廃止となった。この石標は京都市立商業実修学校の跡を示すものである。 Read more.
明治5(1872)年明治政府は,郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手した。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置した。電話は明治10(1877)年に輸入され,同21(1888)年官営の方針を決定し,同23年公衆電話事業が始まった。同29(1896)年京都電話交換局が設置され,翌30年5月に交換業務を開始した。 Read more.
【やまざきあんさいしどうひ】儒者山崎闇斎(1618~82)は,京都で仏門に入っていたが,野中兼山に見出され,土佐国へ移り,谷時中から朱子学を学んだ。寛永19(1642)年以降,京都に居を構え,のち垂加神道を説いた。闇斎の学派(崎門派)には浅見絅斎などがいる。この碑は,闇斎と闇斎を祀る垂加社(下御霊神社末社)を顕彰するために建立された。 Read more.
若狭小浜藩主は譜代大名の酒井家であった。その京都藩邸は,江戸時代を通じて二条城南西のこの地にあった。幕末の小浜藩邸は京都所司代酒井忠義(12代,1813~73)の本拠で,将軍後見職一橋慶喜が最後の将軍として二条城に入るまでの3年10ヶ月を過ごし,大政奉還への道筋を構想した場所とされる。安政5(1858)年京都所司代に再任された酒井忠義は,井伊直弼の命で勤王の志士を一網打尽にした。 Read more.
竹間小学校は明治2(1869)年上京第二十一番組小学校として創設された。平成5(1993)年,京都市立富有小学校と統合し,京都市立竹間富有小学校と改称。さらに平成7年に梅屋・龍池・春日小学校と共に統合し,富有小学校の地に御所南小学校ができた。 Read more.
【がんくきょじゅうち】岸駒(がんく,1756~1838)は,金沢出身で京都に出て有栖川宮に仕えた。独学で沈南蘋をはじめとする中国画や狩野派さらに洋風画も採り入れた作風を確立した。嫡男岸岱や養子岸良・岸連山ら次世代ではさらに京都画壇の主流の地位を保ち岸派と呼ばれた。代々虎の絵を得意としている。この石標は,岸駒邸宅跡を示すものである。 Read more.
円山応挙(1733~95)は丹波国出身の画家。京都の石田幽汀(1721~86)に入門して,狩野派の画法を学んだ。また,宋元画の技術および西洋画の遠近法を加え,写実を重視した画風を興した。応挙とその後継者は円山派と呼ばれた。この石標は応挙の邸宅跡を示すものである。 Read more.
裸の地蔵菩薩(染殿地蔵)◆染殿地蔵は、時宗・染殿院の俗称。本尊の地蔵菩薩は秘仏であるが、等身を上回る裸形の立像で、空海の作と伝える。文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)がこの菩薩に帰依して清和天皇を出産したと伝え、安産守護の信仰が生まれた。『京羽二重織留』に「染殿の后帰依仏なりと。これに依って染殿の地蔵と号す。本尊裸形の地蔵なり。今染色の商家これを信ず。染殿といへる号によつてなり。謬伝笑ひにたゆる… Read more.
明治2(1869)年,新町通四条下る西側に開校した下京第九番組小学校は,同9年この地に移転し,成徳尋常小学校となった。昭和6(1931)年に下京区高辻通室町西入に移転し,同22年新学制のもと中学校となる。この石標は成徳小学校跡地を示すものである。 Read more.
松本宗悟(生没年未詳)は,茶人村田珠光(1502~55)の門人で,十四屋宗伍として知られる。天文年間(1532~55)頃活躍し,歌人としても有名。この石標はその邸宅跡を示すものである。 Read more.
菅家(菅原氏)は文章家として朝廷に仕え,菅原道真(854~903)をはじめ多くの学者を輩出した家。この石標は,北側の紅梅殿(道真邸宅)に対して白梅殿と称される菅家累代の邸宅跡を示すものである。 Read more.
菅原道真(854~903)は学問に優れ,死後天満宮として祀られた。この地一帯は菅原氏の邸宅が設けられ,道真はここで誕生したと伝えられる。この石標は道真誕生地を示すものである。 Read more.
南蛮寺は,切利支丹寺・伴天連寺等ともいう16世紀後半のキリスト教布教所の俗称。京都における最初の南蛮寺は,永禄12(1543)年この地に建立され,年号を寺号とし永禄寺と称したが,南蛮寺と固有名詞のように称されるようになった。方四町,和風三階建てで『洛中洛外名所扇面図』に描かれている。天正16(1588)年豊臣秀吉(1536~98)の伴天連追放令に伴い破却された。この石標はその跡を示すものである。 Read more.
【けんしんだいしせんげのきゅうせき】見真大師は浄土真宗開祖親鸞(1173~1262)の諡号。親鸞は藤原有範の子。延暦寺で修行したが,建仁元(1201)年法然(1133~1212)の門に入って専修念仏の信仰に帰依。承元元(1207)年念仏教団弾圧で法然に連坐し越後に配流。赦免後関東で布教し,寛喜3(1231)年以後京都に戻り,独自の信仰境地に至り,絶対他力や悪人正機など説を唱えた。 Read more.
板倉勝重(1545~1624)は,慶長6(1601)年初代京都所司代に任ぜられ,同8年以降,この地に建てられた官邸に住し,勝重の子,二代所司代重宗(1545~1624)も同邸を利用した。これは堀川屋敷とも称され,京都所司代邸の一郭をなした。この石標は板倉氏官邸跡を示すものである。 Read more.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月1日には,合薬会社を視察した。京都合薬会社(アポテーキ)は,京都の薬業界が設立した薬局で,医師の処方箋による調剤を行った。この石標はその合薬会社跡を示すものである。 Read more.
平安京の朱雀大路は,朱雀門から羅城門まで,南北に4キロメートルにわたって延びる,平安京のメインストリートである。幅は84メートルほどあり,並木として柳が植えられていた。本来,朱雀大路が都の中心とされていたが,右京域の衰退により中心から外れたため,平安時代を通じて徐々に荒廃・縮小していった。加えて,朱雀門以北の内野(旧大内裏)には道が北進していき,鎌倉時代には「千本通」と呼ばれるようになる。 Read more.
【しまばらにしもんひ】島原は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里。島原の入口は,当初は東の大門だけだったが,享保17(1732)年に西門が設けられ,天保13(1842)年,この地に大門が建てられた。近年まで島原の旧観を伝えていたが,昭和52(1977)と平成10(1998)年,2回の交通事故により西門は倒壊した。この石標は島原西門跡を示すものである。 Read more.
【かぶれんじょうあときねんひ】島原は,京都で唯一の幕府公認の遊里。島原歌舞練場は,当初は島原女紅場といい,芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え,遊里を離れても仕事ができることを目指して,明治6年(1873)に設立された教育・勧業施設である。その後,教育内容に変化があったが,昭和2年(1927)にこの地に新築・移転し,本格的な劇場施設となった。 Read more.
日本における初めての幼児教育は,明治8(1875)年上京第三十区柳池小学校において校舎の一隅を充当し開設した幼稚遊嬉場に始まった。 Read more.
中京区御池通神泉苑東入門前町にある東寺真言宗の寺。本尊聖観音菩薩。 ■江戸期の神泉苑 弘法大師二十一ヶ所参の第十四番札所、弁財天二十九ヶ所参の第二十五番札所として賑わった(『京羽二重』、『都すずめ案内者』など)。また、法成就池は名池として名高く(『京羽二重』)、水鳥の名所でもあった(『都花月名所』)。 ■神泉苑の歴史 平安京造営に際して、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑池で、常に清泉が湧きだ… Read more.
世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、熊野参詣で御札を全国に広めよという霊告を受けた一遍上人が、布教のため誓願寺にやってきて歌舞の菩薩となって現れた和泉式部に念仏の尊さを説く物語。歌舞には扇が欠かせないことから、境内に扇塚が作られたもの。また、江戸時代初期に誓願寺第五十五世安楽庵策伝上人が『醒睡笑』を著して落語の祖として仰がれていることも「扇子」との強い結びつきが窺われる。 Read more.
愛宕念仏寺は,醍醐天皇(885~930)勅願で,延喜11(911)年伝燈大法師千観(918~83)の開基。千観は空也(903~72)の教えを受けて熱心に念仏を進め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたとする。天台宗延暦寺派で,本尊は千手観音。大正11(1922)年右京区嵯峨鳥居本に移転した。この石標は愛宕念仏寺の旧地を示すもので Read more.
【もりかんさいたくあと】森寛斎(1814~94)は,長州出身の画家。森徹山(1775~1841)に師事し円山派の画法を学ぶ一方で討幕運動にも参加した。維新後は京都画壇の研究団体如雲社の経営に努め,画壇の復興に寄与し,この地で没した。この石標はその邸宅跡を示すもので,寛斎に師事した山元春挙等の寄附で建立されたものである。 Read more.
中京区三条通室町西入衣棚町の中ほどから南に下り、六角通へ抜ける小路。安土桃山期の茶人広野了頓がここに邸宅(茶亭)を構え、邸内の南北通り抜けを許したため成立。『雍州府志』に「三條の南室町と新町之間也。相伝ふ。広野了頓、祖、元足利家の従臣にして義晴公義輝公の時に至りて采地少しばかりあり。末裔に至りて、民間に流落し、この所に住す。剃髪して了頓と号す。はなはだ茶を嗜む。故に茶亭を構へ、常に釜を炉に置く。… Read more.
【こうのばいれいせいたんち】画家幸野楳嶺(1844~95)は,円山派・四条派さらに南画を学び,明治13(1880)年田能村直入(1814~1907)らとともに京都府立画学校を設立した。のち青年絵画共進会を作り竹内栖鳳(1864~1942)らを育てた。この石標は楳嶺生誕の地を示すものである。 Read more.
明治5(1872)年に発布された学制のもと,幼児のための教育施設が幼稚小学という名称で制度化された。京都においても同21年までに10の小学校内に設置された。この石標は,同21年豊園小学校内に設立された豊園幼稚園を示すものである。平成4(1992)年豊園小学校の統合とともに閉園。 Read more.
【ほうえんしょうがっこうのひ】豊園小学校は明治2(1869)年,下京第十番組小学校として開校し,同8年に豊園小学校と称した。この地は豊臣秀吉(1536~98)の別荘竜臥城の跡地で,秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる邸内の井戸豊園水に因んだ命名。平成4(1992)年に格致・開智・有隣・修得と統合され,豊園小学校の地に洛央小学校が開校した。この石標は統合前の豊園小学校を示すものである。 Read more.
菅原道真(854~903)は学問に優れ,死後天満宮として祀られた。この地一帯は菅原氏の邸宅が設けられ,道真はここで誕生したと伝えられる。この石標は道真誕生地を示すものである。 Read more.
豊臣秀吉が茶の湯に愛用したと伝わる「豊園水」。この水がわき出す井戸はもともと、秀吉の別邸・龍臥城の敷地内にあった。町衆が明治初期に建てた旧豊園小の敷地内で地域によって守られてきたが、約四十年前に地下工事の影響などで枯れ、二年前に跡地にある洛央小が復元した。 Read more.
新宮凉庭(1787~1854)は,丹後出身の医者。蘭方医を志し,文化7(1810)年京坂の医家を訪ね,また長崎でオランダ人医師から直接学んだ。文政2(1819)年京都に出て開業した。天保10(1839)年南禅寺畔に順正書院を作り,各分野の学者を招き系統的な医学教育を行った。この石標は新宮凉庭邸宅の跡を示すものである。石標には「凉亭」となっているが,「凉庭」が正しい。 Read more.